1952年創業、70年以上の歴史がある老舗喫茶店。
お店を始めた曽我孝子さんは、もとは心斎橋の名門喫茶店・御門でオープン当時からウェイトレスとして勤めていた。
そこで出会ったのが、のちに結婚して一緒に喫茶店をオープンさせる夫の曽我貫二さん。
「堺で喫茶店をしたいんやけど、手助けしてもらえる?」孝子さんのその言葉が結果的にプロポーズになったという。
カウンターでマスター見習いをしていた貫二さんは、ハンサムでお客さんにもよく気に入られる青年だった。
2人はお店でゆっくり喋る時間があったわけではなかったが、仕事帰りに孝子さんから食事に誘うなどして、最終的に貫二さんは「よっしゃ、堺に行こうか」と快諾したそうだ。
まだ戦後の焼け跡だった場所に二坪半の小さな喫茶店をオープン。
体を全部おさめられないほどの狭いカウンターと、1つのテーブルに2脚の椅子。
当時の写真は残っていないものの、懐かしそうに話す孝子さんの心には、しっかりと思い出が刻まれている。
素うどん20円の時代に、1杯60円のコーヒー。
堺に来てからもプライドを持って、心斎橋のお店と同じ値段でコーヒーを提供していた。
お店を始めると決めたときはコーヒー豆の仕入れ先なども決まっていなかったが、以前のお店のつながりから、大阪市内の業者さんが堺まで自転車で大和川を越えて配達してくれたという。
オープン当初は「こんなところで60円も出してコーヒーを飲む人はおまへんで」と言われながらも、だんだんと2人の質の高いサービスはお客さんに受け入れられていった。
世間でモーニングが流行り出してからも「よそはよそ、うちはうち」と、自分たちが自信を持って提供できるメニューだけを扱ってきた。
お店のスタッフの移り変わりとともにカレーの提供を始め、それが軌道に乗ってきたころに、道路拡大のため1978年に現在の建物に改築することになった。
お嬢様育ちで本物志向の孝子さんには、お店のイメージに対して「これ」というものがあったそう。
当時流行していた風見鶏は「そんなのはいらない」とはねのけて、内装には本物のレンガを使い、壁には以前の建物があった年号を大工さんに彫ってもらった。
赤い屋根が特徴的な山荘風のつくりで、店内は吹き抜けになっていて屋根にある大きな窓から明るい光が差し込んでいる。
どこの真似でもない今の素敵な建物が完成した。
現在の営業時間は、朝8時から夜6時まで。
午前中は常連さんたちがカウンターに肩を並べ、孝子さんを始めスタッフたちとお話が盛り上がることも。
お昼は人気メニューのカツライスやカツサンドなど、ランチ目当てのお客さんでいっぱいになる。
マスターが亡くなってからは、お店を切り盛りしているお孫さんがコーヒー屋さんと話し合ってメニューを決めているそう。
マスターがいたころはやっていなかったモーニングセットも提供していて、「私らがお店やってるのを知ったら、お父さんびっくりするやろなぁ」と母娘は笑う。
昔から守っているルールは「コーヒーを大事に。お客さんを大事に」
お店に出るときの服装や言葉づかいなど、細やかなところまで注意を払うのが、孝子さんが心斎橋の名店で学んだ接客の極意。
四季ごとに変えているというお店に飾られる写真や、店名が入った可愛らしいカップとソーサーなど、店内にはこだわりが散りばめられている。
それらが合わさって、初めて来た人も常連さんも落ち着いてゆっくりできる雰囲気になっているのだ。
「昔から来ているお客さんには、コーヒーの味が変わったら言ってくださいねって言ってるんです。
でも『今もおいしいよ』ってお客さんがフォローしてくれる」と娘さん。
これからもコーヒーにこだわりながら、家族ぐるみでお店を続けていきたいとマダムは話してくれた。
長い時間を重ねてきた名店を、ぜひ訪れてほしい。